語り継ぐ戦争・鹿児島は空襲で焼け野原になりました
生協コープかごしまでは、6月17日の鹿児島市大空襲をはじめ、県内での空襲の記憶を語り継ぎ、記録する取り組みをすすめています。1945年の鹿児島大空襲を体験された方の手記をまとめた「忘れまい あれから50年~終戦50周年・戦争体験文集」を発行しました。
以下・同文集から抜粋
「忘れまい あれから50年~終戦50周年・戦争体験文集」から
私は日豊線で帖佐駅から鹿児島駅まで汽車通学をしていました。この日は普段よりひときわ高くなり響く空襲警報のサイレンの音で、夕食もそこそこに庭の防空壕の中へ米機の襲来にそなえて身じろぎもせず遠ざかるのを待つていました。
この夜は一向に鳴りやまず、しびれを切らし外にでた。西の鹿児島方面の空が真っ赤です。B29の空爆で今までのようにちょっと偵察といったものでないことを強く感じました。
次の日、日当山駅より通学の友と二人で鹿児島駅に降り立った時の驚き市街地一面焼け野ヶ原で西鹿児島駅の方まで一望・・残っている建物は山形屋と今の三越(その頃丸屋)と銀行ぐらいでした。
(女性・67歳)
疎開先から、久し振りに実家帰りして来た姉親子を迎え、母が心づくしの夕食(食糧難だから)を囲み楽しい一刻だった。あの厳格な父も、お気に入りの姉や可愛い盛りの孫を相手に御機嫌だった。
それが数時間たらずして、姉親子の無残な体を抱く家族になろうとは。戦争中とはいえ、夢にだに想像できない事だった。
(女性・66歳)
突然夜間に大空襲があった。
警戒警報と空襲警報が同時になり、爆弾のすさまじい音で眠りを破られ、枕元の縫いかけの銘仙のもんぺ上下をつかんで妹と夏布団をかぶり外に出た。
母は貴重品をもち、無我夢中で唐湊の川添いに上流に向かい走った。
市内は昼と思うくらい明るくなっていた。
焼夷弾が草むらにさくさくと突きささる。
命からがら軍の大きなトンネルの中に飛び込んだ。皆興奮して大声で泣き叫ぶので軍人が静めるのにヤッキになって叱りつける。
まちは紅連の炎で何もかも焼き尽くしていた。
敵機が去ったので、おそるおそる我が家へ帰ってきた。庭先の壕は前日の雨で水浸し、菜園には不発油脂焼夷弾が2コも落ちていた。父もお尻に破片が当たって病院へ行った。
体や手足の重傷者が行列していて手当どころではなく帰って来ました。
西駅から鹿児島駅まで全部焼け野原とかし瓦礫の山。時々ビルの残骸があるだけで、いたるところに10キロ爆弾が落ちていて大きな穴が池になり、馬の頭蓋骨が野ざらしになっていた。
(女性・69歳)
鹿児島市の平之町付近で4月8日から空襲が始まりました。
艦載機の空襲で爆弾だけで沢山の家が潰されました。友達もどんどん疎開を始めました。町もまた防火帯を作るために強制疎開が実施され道路に面した家が壊されました。
6月に吉野の寺山にあった師範学校の農場に作業に行く途中、グラマン機の機銃操射を受けました。慌てて土手に伏せましたが1m位横を1メートル間隔位に機銃が発射され本当に怖い思いをしました。
6月17日はB29から落とされる焼夷弾に市内は昼間以上に明るいようでした。父の指示でどおりやっと逃げ出し、現在の中央高校のプールの所にあった防空壕で一夜を過ごした。丁度梅雨で水びたしの防空壕に助けられました。
8月6日の空襲で冷水も空襲で焼けて終戦まで防空壕で生活しました。
(男性・60歳)
当時私は15歳でした。
私は貯金局(今の貯金事務センター)に勤務することになった。当時その場所は西本願寺の前にあったが、西本願寺が空襲で焼失した時、木造のその建物も消失してしまいました。
そのあと、場所が高島屋の建物の中に移った。
私は自宅の唐湊から西駅まで歩いて、西駅から市電で天文館まで出るコースと、唐湊から鴨池まで歩いてそこから市電で天文館まで出るコースがあった。
その頃は夜になると空襲があり、海軍の飛行場があった鴨池が一番ひどかった。
母と弟妹たちは伊敷のケボに疎開することになりました。私は勤めがあるので家にのこりました。空襲警報が毎晩のようにある時は防空壕に寝ました。竹山の下に横穴を掘って作りました。
6月17日の夜も防空壕に避難した。時間が過ぎてから防空壕から出て高島屋へ行った。高島屋は外だけ残って中は焼けていました。その足で伊敷まで歩いていったが焼けた電車が線路の上に残ったままだった。
(女性・65歳)
空襲警報が出されないうちに敵機襲来です。外に出ると火の海です。焼夷弾がものすごい数でした。警報がでると私は10歳下の弟をつれて非難する役目でした。
その夜は弟を背負い、履物をもって、火の中を横穴壕まではしりました。横穴に入るとすぐ前の疎開の家が出来上がったばかりで住むこともなく丸焼けでした。
壕の中から飛行機の星のマークが良く見えるのです。あんな怖い夜はありませんでした。
(女性・64歳)
思いだすのも恐ろしいあの空襲。あっという間に街のあちこちから火の手があがりました。
庭に防空壕を掘っていましたが蒸し焼になりそうな気がしたので布団をかぶりなんとか高麗橋のたもとまで逃げました。途中、機銃掃射にあたるのではないかと恐ろしくてたまりませんでした。
川には油が流れ込み、燃え上がり、背中に火のついた人がドブ化した川へ何人も飛び込んでいきました。
わたしも熱くてたまらず、川の中につかって熱さをしのぎました。川の水は汚物や油で汚れきっていたため私の足もかぶれてしまいました。
(女性・66歳)
※文末の年齢は記録への寄稿(1996年)当時のものです。
※平岡さんの撮影された写真は、生協コープかごしまの取り組みへのご理解のもと、特別に許可をいただいて使用しています。
◆空襲等の状況
鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20年(1945年)3月18日から8月6日の計8回の空襲をうけました。
1)3月18日 空襲 午前7時50分ごろ
米グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃した。
罹災状況:死者:6人、負傷者:59人、輸送艦:1隻、航空隊の建物の大半を焼失
この空襲では、軍関係の人員、施設だけが被害を受けました。
2)4月8日空襲 午前10時30分ごろ
田上町方面で投下爆弾が起こってから続いて、騎射場、平之町、加治屋町、
東千石町、新照院などから一斉に黒煙が立ち、火の手も上がった。
爆弾は大型250キロ爆弾・約60個。
罹災状況:田上町、下荒田町、平之町、加治屋町、東千石町、西千石町、
新照院
被災者数:12,372人 被災戸数:2,593戸
死者:587人 負傷者:424人
3)4月21日 空襲 午前5時44分・ 午前6時9分・8時ごろ
吉野方面から市中央部へ向かう米軍機数十機が現れた。
長田町、山下町、東千石町、加治屋町、山之口町、樋之口町、新屋敷、
爆弾はおよそ200個、城山トンネル付近に落ちていた不発弾を撤去しました。
不発弾と思われていたが一時間たってからあちこちで爆発した。時限爆弾だとわかり大騒ぎになった
罹災状況:長田町、山下町、東千石町、山之口町、樋之口町、平之町、城山
トンネル入口付近
被災者数:4,548人、被災戸数:878戸
4)5月12日夜間空襲 午後8時ごろ
この日は初めて夜間の空襲を加えた。主に湾岸地帯が被害を受けた。沖縄基地を使用した初めての鹿児島市空襲でした。
罹災状況:湾岸地帯
被災者数:67人 被災戸数:18戸
5)6月17日夜間空襲 午後11時5分
この日は鹿児島市民にとって、呪われた日になった。8回の空襲の中でも最大の被害がでた。鹿児島市に投下されたこの夜の焼夷弾は13万個(推定)とされており、短時間で市街地は火の海と化しました。
罹災状況:市中心部全域
被災者数:66.134人 被災戸数:11,649戸
死者:2,316人 負傷者:3,500人
6)7月27日空襲 午前11時50分
6回目の空襲を受けた。6・17空襲から40日目でした。
この日は晴れ渡り、その時間鹿児島駅は鹿児島本線と日豊本線から列車が到着した直後でありごった返していた。その強力な爆発力で、多くの市民が殺傷された。
罹災場所:鹿児島駅、車町、恵比須町、柳町、和泉屋町
被災者数:8,905人 被災戸数:1,783戸 死者:420人 負傷者:650人
7)7月31日空襲 午前11時30分ごろ
ロッキードの編隊、10数機が来襲し上町一帯を爆撃した。清水町、大竜
小をはじめ民家多数を焼き、西郷さんの木像などすべて失った。
罹災状況:鹿児島駅付近、清水町、池ノ上町、上竜尾町、下竜尾町一帯
被災者数:16,542人 被災戸数:3,251戸
8)8月6日夜間空襲 午後12時30分ごろ
米軍機グラマン・カーチスの艦載機が来襲し爆弾投下、機銃掃射を行った。
上荒田及び西鹿児島駅付近、城西方向一帯、伊敷の18部隊兵舎が焼失した。
罹災状況:上荒田町、原田町、薬師町及び伊敷村一帯
被災者数:6,817人 被災戸数:1,789戸
8回にわたる空襲:
死者:3,329人 負傷者: 4,633人、行方不明:35人
被災者数:107,388人、合計:115,385人
(その総数は昭和20年初期の疎開後の人口約175,000人に対し66%)
建物の罹災戸数:
全焼:20,497戸、半焼:169戸、全壊:655戸、半壊:640戸
計:21,961戸
(全戸数38,760戸に対し57%)
全市は文字どおり廃墟と化し、市街地の約93%にあたる327万坪を焼失しました。
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※未来に残す 戦争の記憶 プロジェクトは、“戦争の記録”や戦争を体験された方々の“戦争の記憶”を100年後の世代に残すためのプロジェクトです。多くの情報を長期間保有しやすいインターネットの特性を生かして、報道機関や研究者などが所有する戦争当時の記録や、戦争体験者の証言を残すことで、未来を生きる人たちに戦争に関する情報やみなさまの思いを伝えていきます。このプロジェクトは戦後70年にあたる2015年にプロジェクトを開始しました。